陽のあたるところ

ぼーっとしたり、考えたり。

キューガーデン 英国王室が愛した花々 シャーロット王妃とボタニカルアート vol.1

f:id:Leuchter:20211121230831j:plain滞在時間は全部で4時間ちょっと。私にしては随分と長い非日常だったけど、とても楽しかった。面白いんだね、展覧会って。以下感想。体感としては、3分の1程度を吐き出したところである。

12:00〜13:00に入場するチケットを購入したにも関わらず、到着が5分ほど遅れるというミス。夜勤続きで眠くてたまらなかったこと、ホームから出口までが遠かったこと、信号の待ち時間が想定よりずっと長かったこと……。私視点の原因はこのあたりだけど、どれも余裕を持って出発できていれば防げたな。次は気をつけよう。今回は優しい対応をしていただけて幸運だったな。
敷地に入って、途端に空気が変わったように感じた。周囲一体を草木に囲まれていて、ぐんと空気が冷えた気がする。森に行くと感じるあの冷たさだった。自然豊かな場所に行きたいとずっと願っていたので、その冷たさに包まれた瞬間不思議な脱力感があった。自然の中にいる。森にいる。ゆっくりと沁み入るな喜びを感じていたと思う。
悩んだけれど、ロッカーに荷物を預けることにしたのは正解だった。上着も荷物も置いて、身軽になることって楽しい。私は体力がないから、疲れの原因になりそうな重い荷物は今後も出来るだけ預けるようにしよう。観覧する上でも邪魔になるしね。

初めの数分は、何も持たずに展示を眺めていた。けれどどんどんメモがしたくなって、最終的にパンフレットに直接書き込むスタイルに落ち着いた。スマホにメモすることも考えたんだけど、私には合わなかった。何も調べずに行ってしまったのだけど、バインダーの1つでも持っていけばよかった。それから持参の鉛筆。シャーペンしか持っていなくて、貸出用のものを借りるという手間を掛けさせてしまったのでこれまた反省点である。
一番最初の部屋にあった青いチャボリンドウの絵(シモン・ピータース・ヴェレルスト)。すべての展示の中であの青が一番印象に残っている。日差しの当たり具合だったんだろうか、淡いグラデーションにとても心惹かれた。きっとあのまま、ずっと眺めていられたと思う。

ほぼ全ての展示の感想をメモしてあるから、何をどのくらい書き残すかに迷ってしまう。
ウェッジウッドの網籠皿は、陶器を籠にするという発想に驚いた。陶器といえば、例えばお茶碗のように隙間のないものというイメージが強かったから。陶器の玉杓子が存在することにも驚いた。熱いものを掬いづらそうだけど、冷製スープにでも使うんだろうか。エナメル彩、黒鉛、手彩色、ジャスパー、ブラックべサルト。知らない用語ばかりで想像するだけで面白い。銅版の展示も多かったので、版画の技法についても興味が湧いた。何点かの展示では、イラストの左上に活版印刷らしき数字や文章が残されていて、「その時代の当たり前が何だったのか」が感じられた。全て手書きではなくなったけれど、今のような印刷技術はまだない。技術の移り変わりという概念に柔く触れたのだと思う。

移り変わりといえば、順路を辿る中で“啓蒙主義からロマン主義的な態度への移り変わり”を体感できたのも良かった。ボタニカル・アートの歴史は、薬物誌や植物誌といった分野と共に発展していったそうで。それ故写実的で、標本として緻密な描写が行われていると感じられた。それが、徐々に絵画としてのボタニカル・アート、つまり植物それ単体ではなく、背景やストーリーも魅せてくるような作品に移り変わっていった。もちろん、ある時代から後の作品すべてがそうというわけではないので、これはあくまで「フローラの神殿」に掲載されたという展示品たちに対しての感想である。例えば、真夜中を指す時計と共に描くことで夜に咲いていることを示唆させたセレニケレウス・グランディフロルス(ロバート・ジョン・ソーントン)。冬の村をバックに咲く、春を告げるクロッカス。花と共に虫の描かれた展示品を見て、「あぁ、これは標本ではなく絵画だ」と強く感じた。それまでの展示には何点も、あえて色を付けていない部分のある作品が見受けられた。そうすることにより、植物の特徴にフォーカスする。その植物のみを対象に余すことなく伝えようとする“標本”ではなく、その植物が生息する環境や自然の中での営みまでマクロに描いたこれは、標本ではなく“絵画”であるというのが私の純粋な感想である。ストーリー性の有無という違いにおいて、私はこれらを“標本”と“絵画”という僅かながら方向性の異なる方法で描写された植物たちだと感じた。

陶器に話を戻すと、ウェッジウッドの隆盛については色濃い産業革命の影を感じた。質良く廉価に大量に作れるようになったウェッジウッドの陶器は、それまでの粗悪な陶器に取って代わり生活に浸透した。らしい。ソーホー製作所なる工場の写真は、産業革命時代のイギリスの風景を容易に思い起こさせるようだった。「クイーンズウェア」の名を賜ったことがウェッジウッド社の成功の後押しとなったことは疑いようがないので、歴史に名を残すような成功の側には権力があるものなんだなとしみじみ思わされた。そうでないことももちろんある。ただ、今回の展示では(当たり前だが)イギリス王室と関わりのある人々が多く紹介されていたので特にそう思わされた。
花瓶が私のイメージする花瓶より大きなものばかりだったことはよく覚えている。実際に花の活けられた姿が見たいものだと思った。今回展示されていた花瓶の類全てに共通して、その模様が何を意味しているのかを知りたくなった。ポートランドの壺なんて、取手の部分に男の首がかかって(?)いた。一体何なんだろうね、あれ。己の芸術の知識の無さを惜しむばかりである。

数々の展示品の背景に、大きな大きな歴史の波を感じる。うろ覚えの歴史もあれば、聞いたこともないような出来事が書かれていたり。歴史の全ては繋がっているから、点と点を線で繋げられる瞬間はとても面白い。私は歴史に明るくないけれど、それでも見えるものがあった。これからの人生ではそれらを更に楽しめるようになると思えば、「今知らない」というのも悪いことばかりじゃない。繋がる知識はきっと人生を豊かにする。

感想としてはまだまだ沢山あるのだけれど、纏まりが良いので一旦ここで終わりとする。展覧会、とても良い。また行きたい。