陽のあたるところ

ぼーっとしたり、考えたり。

イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜

東京駅から三菱一号館美術館に向かう道のりに迷ってチケットの予約時間よりも遅刻したのは私です。本当に学ばない……。
未来の自分へ。三度目の正直だよ、忘れないようにね。

世界史の教科書で見たルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』が好きだった。モネの『散歩、日傘を指す女性』も。だから、「印象派が好きなのかもしれない」とぼんやり思っていた。その好きの理由が分かったことはなかったけれど、華やかな光とその陰の薄暗さ。柔らかくも色鮮やかなところが気に入っていたのかもしれないと今は感じている。

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全体を通して技法や構図の意図が解説されたパネルが多いように感じた。が、展覧会に行った経験が少ないので、こんなものなのかもしれない。「自然から直接学んだ」という説明文が数点存在することに驚いた(誰それから学んだ、以外の説明文が存在すること、許されることが衝撃だった)し、「自然から直接学んだ」からこそ印象派の絵画なんだろうなと感じた。どの作品も、水の反射と光の動きが綺麗だ。私は単に、この光の具合が好きなんだと思っていた。ただ、順路を歩いていくと少しずつ、本当に好きなものが見えてくる。

同じ印象派でも、色使いが随分と違った。コロー『川沿いの町、ヴィル=ダブレー』のような銀灰色で仄暗さのある光と陰が私の漠然とした印象派のイメージだったから、ポール・シニャックの『サモワの運河、曳舟』のパステルカラー(?)と点描には驚いた。また、ポール・セザンヌ『川のそばのカントリーハウス』は油絵というより水彩画のように見えて驚いた。理由は油絵特有の(と思っている)絵の具の盛り上がりがあまり見受けられなかったから。「重厚感があるから油絵が好き」というこれまた漠然としたイメージから外れて、この作品にはあっさりとした印象を受けた。絵画って奥深い、全然わからない。

わからないなりに眺めながら歩いてみて、絵の具のタッチがわかる油彩が好きだなと思った。何層にも重ねた絵の具の跡が見えるもの、その凹凸故かきらきらと光って見えるもの。色合いも、淡く柔く穏やかなものよりは、ぱきっとした色合いの濃いものが好きだ。淡い光の絵画が好きだと思っていたけれど、のどかな風景画がひたすらに並ぶ順路は単調に感じられた。何も起こらない、事件を予感させない。そんな平穏さが、今の私には物足りなく感じられたのだと思う。

1時間半ほどかけて展示を一周し、ミュージアムショップに辿り着いた。少し前から私には、「フォトフレームを買って、部屋にポストカードを飾りたい」という些細な夢がある。だから、飾りたいと思えるようなポストカードを探していて、この展覧会でそんな1枚に出会えたらいいなと思っていた。でも私は、自分の思うよりもずっと、塗りの厚さに油絵の魅力を感じていたらしい。ずらりと並んだポストカードを見て、そのどれもが「本物じゃない」と感じてしまった。紙という平面に納められて、絵画の美しさやそこから生まれる感動が損なわれたという話ではない。ただ、立体感がなくなっただけ。そして、私がもっとも魅力を感じるのはその立体感こそであったというだけ。
でも、店内に飾られていたミニキャンバスや額装された絵画たち、素敵だったな。部屋に額装した絵画を飾るのもいいなぁと、新たな気づきを得ることができた。

そんなわけで、今回は何も購入しなかった。こういう場所に行くと、記念に何か買ったほうが良いんだろうなという気になってしまうから、本当に何も買わないで店を去るのは勇気がいった。後悔しないだろうか、いつも通りが安牌なんじゃないだろうか。ぐるぐる考え込むも、自分の「買いたくない」を大切にしようと決める。少し前の私だったら選べなかった。断捨離や掃除を通して少しずつ、「本当に持ちたいものだけを持つ」という意識が強くなっている。大切にしたいもの、できるものかを吟味するようになった。またひとつ、私は良い方へと変われている。

後ろ髪ひかれながらもミュージアムショップを後にして、今度は併設カフェのタイアップメニューを食べに行く。待ち時間は40分ほど。一瞬迷ったけれど、思ったより回転が早そうだったから待つことにした。順番待ちの椅子に座って、今日の感想を考える。あの絵画が好きだったな、とか。思い出すトリガーになるものを何も買わなかったから、良いと思った絵画もこのまま忘れちゃうんだろうなと惜しかった。だからといって、なんとなく思い出を買うことは選べなかった。どうしたら良かったんだろうかと考えて、ここに書いておけばいいのかと気がついた。そうだ、そのために私はここを作ったのかもしれないね。物を買わずとも、味や景色や感情で確かに思い出は残るのだと、もう少し信じてみてもいいのかもしれない。忘れてしまうかもしれないけれど、今はここがある。書き残せば、きっと少しは思い出せる。

買おうか悩んだもの。
『海景色』ギュスターヴ・クールベ
波が壁みたいに感じられた。絵の具の盛り上がった波が綺麗で、空が晴れ渡っていないところも好きだった。

『夏の陽光(ショールズ諸島)』チャイルド・ハッサム
岩辺で本を読む女性。不思議と暑そうに見えた。当時はどのくらいの温度だったのかな。

『冬のベルリン』レッサー・ユリィ
寒く冷え込んだ街の色合いが好きだった。やっぱり冬が好きだなぁ。

『夜のポツダム広場』レッサー・ユリィ
雨の日が好きなので、特有の暗さや人々が傘を指している光景、水に濡れた地面に反射する光などとても惹かれた。看板のネオンは眩しすぎるけれど、地面に反射する雨の飛沫を靴で感じられる気がした。

『赤い絨毯』レッサー・ユリィ
今回の展示の中で一番好きな作品だったかもしれない。何も意識せずとも作品が動く姿を想像できた。手作業をしている後ろ姿は不思議とノスタルジックで、あと少ししたら振り返って視点である誰かに笑いかけるのかな、とか、側には暖炉があるんだろうかとか、その背景にまで意識が向かう作品だった。

こうして描き出してみるまで気づかなかったけど、レッサー・ユリィの作品が好きなのかもしれない。

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デザートが運ばれてくる。花咲くリンゴのシブースト。正直どう食べたらいいのか迷った。次の展覧会までに、私はテーブルマナーの基礎を学んでおくべきかもしれない。
食べてみると、想像よりも強くブランデーがきいていた。バルサミコソースには初挑戦。酸味が苦手なのでどうだろうと口にすると、得意でないタイプの酸味だった。でもこの酸味が、甘さの中で良いアクセントになっているんだろう。わからないけれど。お酒を使っていることからも伺えるが、大人の味という印象である。複雑な味がした。

今回の展覧会は、タイアップメニューも展示も、なんだか「大人なもの」という感じがした。よくわからないまま迷い込んだ子どものような心地。人が多かったのもあるかもしれない。自分があまり集中できていないのを感じたし、ずっと何かが動いていて、列なす人々のうちのひとりであることが無性に怖かった。ただまぁそれでも、その中で僅かに感じ取れたよろこびを大切に抱えたい。例えそれが、日常の中ですぐに忘れさられてしまうような些細なものだとしても。

三菱一号館美術館の廊下を歩いていて、庭園美術館の廊下を思い出す。いいなぁ、こういう廊下のあるお屋敷に住みたい。燭台に火を灯して回りたいし、蒐集もしたい。果たして叶うのやらという理想だけど、また1つ新しい理想が掴めて私は満足した。インターメディアテクに初めて立ち寄って、展示の内容を友人に連絡した。好きそうだからと伝えると、こういうの好き!と返ってくる。久々に声をかける良いきっかけになった。カラオケに行って便箋も購入して、良い気分転換の1日を過ごせたような気がしている。

キューガーデン 英国王室が愛した花々 シャーロット王妃とボタニカルアート vol.3

なんだかんだとvol.3まで書いている。ただ、展示についての感想は一通り満足行くまで触れたので、ここでは主に展覧会そのものの感想を残しておく。

こうしてしっかりした展覧会に行くのはいつぶりだろうか。学校行事で行った覚えがあるようなないようなで、個人として行くのは初めてかもしれない(そうでなかったかもしれない)。

展示を一通り見ていく中で、ゲームさんぽのあつ森回を思い出していた。あの動画では、実際の学芸員の方が展示会を開く際に意識していることが語られていた。順路や解説文に対して、本当に色々なことが考えられていると知ったのだ。そのことを、今回自分の肌で感じることができた。解説を読むことで広がる世界があったり、展示を見る中で疑問に思ったことがその空間のパネルで説明されていたり。展示の意図と自分の思考が綺麗にハマる瞬間があって、その繋がる瞬間にこそ私は面白みを感じるのかもしれないと思った。

悩んで悩んで、図録を購入した。この図録を足がかりに、興味を持った事柄を調べていきたい。たくさんのことを疑問に思ったから、それらすべてに自分なりに答えを見つけたい。一人で黙々と調べて楽しむのはあまり得意じゃないから、そうやって調べたことを聞いてくれる人がいたらいい。図録を読んで、ネットで調べて、それから本を読んだり世界史の図表を開こう。きっともう使わないんだろうなと思いながらも捨てられなかった図表が使えそうなのは良かった。改めて開いたとき、「取っておいてよかった」と思えたならそれでいいし、「なくてもいいな」と思えたなら断捨離の良いきっかけとなるだろうから。

この記事を書いている今になって気づいたのだけれど、庭園をまったく味わってない!楽しみにしていたのにすっかり忘れていた。また後日、今度は自然を楽しみにふらっと立ち寄ろうか。

キューガーデン 英国王室が愛した花々 シャーロット王妃とボタニカルアート vol.2

感想第二弾。

「英国王室が愛した花々」というタイトルの通り、展示されているパネルにはシャーロット王妃が如何にボタニカルアートの発展に貢献してきたかが記されていた。シャーロット王妃。ドイツより渡英し、ジョージ3世に嫁いだ人。植物や音楽を愛した多趣味な人。展覧会を通して、シャーロット王妃の人物像にも興味を持った。賢く献身的な女性という印象を受けたのだけれど、これから新たに調べたりしていく中で、その第一印象が自身の中でどう変化していくのかを楽しみにしてる。

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そんな王妃の名前を冠したオペラ・シャーロット。ホットのコーヒーをつけるか紅茶をつけるか迷って、コーヒーにした。事前情報で薔薇のジュレが乗っていると聞いていて、もしかしたら苦手な味かもしれないと不安になる(でも頼む)。どうだろうなぁと思いながら食べてみると、とっても美味しい!!ジュレの甘酸っぱさが本当に美味しくて、今度薔薇の味の商品を見かけたら買ってみようかなと思うほど。チョコレートが私にとっては甘すぎたから、食べるペースは自然と落ちる。結果、最後の一口までゆっくりと味わって食べられたような気がする。ケーキに乗っていたお花の砂糖漬け(たぶん)も初挑戦。たったの1枚で存在感のある甘さが口に広がった。けれど甘ったるいということもなく、満足感がある。私の知らない甘さだった。すみれや薔薇の砂糖漬け、個人で買ってみようかな。とても美味しかった。
(写真を見返してみると、お皿にあしらわれているのも薔薇なのかな?それとも別のお花だろうか、そういう細部にまで自然と気づけるおとなになりたいな。)

そして薔薇といえば。薔薇はイギリスにとって非常に重要な花であるということを今回初めて知った。連合王国の国花も薔薇なんだね、知らなかった。バラ戦争には覚えがあったけれど、テューダーローズのことは忘れていた。調べたら赤と白の織り混ざった薔薇の紋章で、ユニオンローズと呼ばれることもあるらしい。また、「西洋の薔薇を愛でる習慣には長い歴史がある」と聞いて、ローズガーデンへの素朴な疑問を思い出す。どうして薔薇のみを植えるのだろう、どうして薔薇だったのだろうと漠然と思っていたけれど、それだけ薔薇が身近な存在であったということなのかな。日本だったら桜だろうか。春の日にわざわざ皆で集まって見に行く花が桜であることに、今更誰も疑問を抱かないものね。

女性画家の中ではマーガレット・ミーンの作品が一番好きだったな。展示を見たとき、葉の筋に自然と目が惹かれてなんだか良いなと思ったことを覚えてる。少し場所が前後するけど、リーブス社の水彩道具箱が可愛くて可愛くて堪らなかった。部屋に置くだけでも満足できる可愛さ。女性の職業に植物画家という選択肢が増えてからは、ドローイングルームにああいう水彩道具箱が置かれていることもあったのだろうか。それってとてもわくわくして心が喜ぶような光景だ。いいな、とっても素敵だ。
女性やカンパニー・スクールの描いた展示たちと、それまで飾られていた西洋で(おそらく)男性によって描かれた展示たち。事前情報無しに見比べていたとしたら、何か感じ取れるものがあったのだろうか。描かれた展示に時折東アジア原生、というような解説が載っていた。植生から何かを連想できるようになるのもきっと面白いことだろう。地球って不思議で面白い。

最後。上映されていた映像2作を通して。

AIが写真から花の名前を正確に判断できるようになるのはまだ先であるという話を思い出す。技術がどんどんと進歩していく中で、それでも未だ植物画家が偉大な職業であることの理由が伺えた。動画には植物画家として働いている女性が出てきて、「植物に詳しいから、どこを描くかの取捨選択ができる」という旨のことを話していた。実際にそれまで見てきた展示の中にも、敢えて葉や茎の色を塗っていないものがあったり、花弁1枚だけを緻密に描いたものがあった。印刷技術や科学技術が進歩していっても、それでもまだAIは写真から花の名前を断定できない。どこを伝えるか、どこを省くか。そしてそれをどれだけ正確に描けるか。それは膨大な植物の知識と繊細な画力があってこその技であって、カラー印刷もAIも、まだまだ人間のそれには遠く及ばないんだなぁ。日々を生きていると、技術の発展の目覚ましさにばかり目が向くが、人間の出来ることや可能性もまた素晴らしいものであるはずなのだ。そう思い出したりした。

キューガーデンは最先端の研究機関でもある。どの人も自分の仕事に誇りを持って働いていることが強く伝わってきた。彼らのような人のことを、professionalと形容するのだろう。映像の中に、ガイドらしき方が何かを説明しているシーンがあって、それを見たとき羨ましいと思った。楽しそう。私も聞きたい。直接教えてほしいし、質問もしてみたい。実際にそういったツアーがあるのかは不明だけれど、「多少専門的な説明でも理解できて、質問までできる」というレベルの英語力が欲しいなと、目標が見えたような気分だった。そして、単純にキューガーデンに行ってみたい。「世界各地の植生をそのまま再現しているから、歩くだけで世界を旅しているような気分になれる」という旨の言葉を聞いて、天国のような場所だと思った。これは単なる私の妄想なのだけれど、“天国”にはきっとこの世にあった植物の全てが存在していると思う。(あくまで物語的な天国の話なので、死んだときにその天国に行くことになるとは思ってない。)無機質無感動な機構たる天使の群れ、ありとあらやる動植物の保全された地域。創作として天国を考えるとき、私はいつもそういったイメージを思い浮かべる。キューガーデンでその光景を目にしたとき、このイメージも何か影響を受けたりするんだろうか。そんなくだらないことを考えて、この感想の締めとする。

キューガーデン 英国王室が愛した花々 シャーロット王妃とボタニカルアート vol.1

f:id:Leuchter:20211121230831j:plain滞在時間は全部で4時間ちょっと。私にしては随分と長い非日常だったけど、とても楽しかった。面白いんだね、展覧会って。以下感想。体感としては、3分の1程度を吐き出したところである。

12:00〜13:00に入場するチケットを購入したにも関わらず、到着が5分ほど遅れるというミス。夜勤続きで眠くてたまらなかったこと、ホームから出口までが遠かったこと、信号の待ち時間が想定よりずっと長かったこと……。私視点の原因はこのあたりだけど、どれも余裕を持って出発できていれば防げたな。次は気をつけよう。今回は優しい対応をしていただけて幸運だったな。
敷地に入って、途端に空気が変わったように感じた。周囲一体を草木に囲まれていて、ぐんと空気が冷えた気がする。森に行くと感じるあの冷たさだった。自然豊かな場所に行きたいとずっと願っていたので、その冷たさに包まれた瞬間不思議な脱力感があった。自然の中にいる。森にいる。ゆっくりと沁み入るな喜びを感じていたと思う。
悩んだけれど、ロッカーに荷物を預けることにしたのは正解だった。上着も荷物も置いて、身軽になることって楽しい。私は体力がないから、疲れの原因になりそうな重い荷物は今後も出来るだけ預けるようにしよう。観覧する上でも邪魔になるしね。

初めの数分は、何も持たずに展示を眺めていた。けれどどんどんメモがしたくなって、最終的にパンフレットに直接書き込むスタイルに落ち着いた。スマホにメモすることも考えたんだけど、私には合わなかった。何も調べずに行ってしまったのだけど、バインダーの1つでも持っていけばよかった。それから持参の鉛筆。シャーペンしか持っていなくて、貸出用のものを借りるという手間を掛けさせてしまったのでこれまた反省点である。
一番最初の部屋にあった青いチャボリンドウの絵(シモン・ピータース・ヴェレルスト)。すべての展示の中であの青が一番印象に残っている。日差しの当たり具合だったんだろうか、淡いグラデーションにとても心惹かれた。きっとあのまま、ずっと眺めていられたと思う。

ほぼ全ての展示の感想をメモしてあるから、何をどのくらい書き残すかに迷ってしまう。
ウェッジウッドの網籠皿は、陶器を籠にするという発想に驚いた。陶器といえば、例えばお茶碗のように隙間のないものというイメージが強かったから。陶器の玉杓子が存在することにも驚いた。熱いものを掬いづらそうだけど、冷製スープにでも使うんだろうか。エナメル彩、黒鉛、手彩色、ジャスパー、ブラックべサルト。知らない用語ばかりで想像するだけで面白い。銅版の展示も多かったので、版画の技法についても興味が湧いた。何点かの展示では、イラストの左上に活版印刷らしき数字や文章が残されていて、「その時代の当たり前が何だったのか」が感じられた。全て手書きではなくなったけれど、今のような印刷技術はまだない。技術の移り変わりという概念に柔く触れたのだと思う。

移り変わりといえば、順路を辿る中で“啓蒙主義からロマン主義的な態度への移り変わり”を体感できたのも良かった。ボタニカル・アートの歴史は、薬物誌や植物誌といった分野と共に発展していったそうで。それ故写実的で、標本として緻密な描写が行われていると感じられた。それが、徐々に絵画としてのボタニカル・アート、つまり植物それ単体ではなく、背景やストーリーも魅せてくるような作品に移り変わっていった。もちろん、ある時代から後の作品すべてがそうというわけではないので、これはあくまで「フローラの神殿」に掲載されたという展示品たちに対しての感想である。例えば、真夜中を指す時計と共に描くことで夜に咲いていることを示唆させたセレニケレウス・グランディフロルス(ロバート・ジョン・ソーントン)。冬の村をバックに咲く、春を告げるクロッカス。花と共に虫の描かれた展示品を見て、「あぁ、これは標本ではなく絵画だ」と強く感じた。それまでの展示には何点も、あえて色を付けていない部分のある作品が見受けられた。そうすることにより、植物の特徴にフォーカスする。その植物のみを対象に余すことなく伝えようとする“標本”ではなく、その植物が生息する環境や自然の中での営みまでマクロに描いたこれは、標本ではなく“絵画”であるというのが私の純粋な感想である。ストーリー性の有無という違いにおいて、私はこれらを“標本”と“絵画”という僅かながら方向性の異なる方法で描写された植物たちだと感じた。

陶器に話を戻すと、ウェッジウッドの隆盛については色濃い産業革命の影を感じた。質良く廉価に大量に作れるようになったウェッジウッドの陶器は、それまでの粗悪な陶器に取って代わり生活に浸透した。らしい。ソーホー製作所なる工場の写真は、産業革命時代のイギリスの風景を容易に思い起こさせるようだった。「クイーンズウェア」の名を賜ったことがウェッジウッド社の成功の後押しとなったことは疑いようがないので、歴史に名を残すような成功の側には権力があるものなんだなとしみじみ思わされた。そうでないことももちろんある。ただ、今回の展示では(当たり前だが)イギリス王室と関わりのある人々が多く紹介されていたので特にそう思わされた。
花瓶が私のイメージする花瓶より大きなものばかりだったことはよく覚えている。実際に花の活けられた姿が見たいものだと思った。今回展示されていた花瓶の類全てに共通して、その模様が何を意味しているのかを知りたくなった。ポートランドの壺なんて、取手の部分に男の首がかかって(?)いた。一体何なんだろうね、あれ。己の芸術の知識の無さを惜しむばかりである。

数々の展示品の背景に、大きな大きな歴史の波を感じる。うろ覚えの歴史もあれば、聞いたこともないような出来事が書かれていたり。歴史の全ては繋がっているから、点と点を線で繋げられる瞬間はとても面白い。私は歴史に明るくないけれど、それでも見えるものがあった。これからの人生ではそれらを更に楽しめるようになると思えば、「今知らない」というのも悪いことばかりじゃない。繋がる知識はきっと人生を豊かにする。

感想としてはまだまだ沢山あるのだけれど、纏まりが良いので一旦ここで終わりとする。展覧会、とても良い。また行きたい。